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思えば遠く来たもんだ

2018年03月12日
弁護士  小坂 祥司   プロフィール

 3月5日でとうとう60歳になった。「還暦」という言葉はどこか遠い先のものであるように思っていたけれど、気がつくとすぐそばに来ていて愕然とする。
 

 からだのほうは2009年に一度心臓をおかしくしてから、無理がきかないということを痛感するようになった。髪の毛も(染めなくなったせいもあるが)最近は真っ白になっていて、はたからみれば立派な(?)「おとしより」の仲間になったのかもしれない。
 
 この年齢になって思うけど、気持ちより体のほうがさきに年を取るのを実感する。自分はまだまだ年をとったつもりは無いのだけど、それまでの感覚で体を動かしていると、思わぬ失敗をすることがある。最近、手足を動かしていて、何かにぶつけてものを壊したり、棚から落としてしまったりすることが時々おこるようになった。自分では、避けているつもりなのだが、手足が頭の動きについて行けず、手足の先に引っかけてしまうらしい。

 弁護士の仕事も、頭の仕事と思われがちだが、意外と体力を必要とする。法律相談を例にあげれば、相談者から話を聞き、そこから法律的な問題点を抜き出し、そこでどの様な権利主張が可能か、相談者から話される事実関係をもとに検討をする・・・こういう作業を、相談者から話を聞きながら進めていくことになるが、かなりの集中力を必要とする作業だ。体力でいえば瞬発力はさして必要ないが、精神集中を一定時間維持できるだけの持続力は必須ということになる。それほどしょっちゅうあるわけではないが、時間との兼ね合いで、どうしても完成させる必要があるということになると、時には徹夜、半徹夜で書面を書き上げるということもある。今のところ、こちらの集中力のほうはまだどうにか維持できているように思うけれど、夜遅くまで書面を書いたりすることがあると、さすがに次の日が辛くなることが多くなった。
 
 私が弁護士の仕事を始めたのは昭和60年の1985年のことだから、今から33年近くも前のことになる。33年も弁護士をやっていると、それなりにいろいろなことを経験することになった。

 大きな事件では、やはり「じん肺訴訟」。札幌では昭和55年に金属鉱山で働いた人々が原告となった金属じん肺訴訟が始まり、これに続いて炭鉱で働いた人々が原告となった石炭じん肺訴訟が昭和61年に提訴となった。私はこの訴訟に仕事始め当初から関わり、現在も関わり続けている。この訴訟の中で、様々なことを学ぶことができたと思っている。法律論では、最大の難関と思われていた消滅時効理論が大きく変化を遂げていくところを目の当たりにし、法律(その解釈・運用)のもつダイナミズムを実感することができた。法律論だけではない、じん肺の症状にあえぐ患者の方々、その家族や遺族の苦しみを目にして、法律は誰のためにあるのか、弁護士は何が出来るのか、何をしなければならないのか等様々なことを考えることになった。そういう意味で、この事件に関われたことを感謝している。

 その他では、自衛隊イラク派兵違憲訴訟が思い出される。この事件は、箕輪訴訟とも呼ばれて、自民党議員だった箕輪登氏が起こした訴訟だった。今にして思えば、ここから専守防衛が崩れ始め、憲法9条2項の現実的な破壊が始まったように思う。最も危機を感じ取り、先頭に立って訴訟の原告となったのが、自衛隊と関係の深かった古参の自民党議員であったというのも象徴的な出来事だった。その訴訟が続いている間の2004年に、あの忘れもしないイラク邦人人質事件が起こったのだった。あることから、この事件に関わることになった私は、東京の北海道事務所の一部屋で、人質となった人の家族や支援の人々と一緒にいた。「自衛隊を3日以内に撤退させなければ人質を殺害する」との拘束グループの要求に、ただ時の経過を見守ることしかできなかった無念さ、そして、解放の声明が出されたときの、おもわず大声を出さずにはいられないほどの喜び。その場にいた者でなければわからないと思う。しかし、その後の日本でおこった猛烈な自己責任論バッシング。一人は高校生だった。拘束されたのは彼らの責任ではないのに「死ね」といわんばかりの非難が日本中で吹き荒れた。帰国した3人は一度ならず自殺を考えたこともあったという。政府やマスコミの攻撃だけではなく、心ない人々からの攻撃も現実に数え切れないくらいあった。こんなことが起こってしまう日本という国を考え、心底怒りを覚えたのがこの時だった。こういう攻撃、被害から擁護するというのも弁護士の仕事でもある。情けなく、辛い思いでした仕事でもあったが、弁護士がこういう場合の助けになることを実感することにもなった。
 
 あれこれ思い出すときりが無い。ただ、弁護士とはなにか、自分とはなにかを考えることになった大きな出来事はこの2つだったように思う。
 
 こうやって書いてくると、何かずいぶん偉そうなことを書いたような気がしてちょっと赤面する。これも今思ってみてこう書いているので、その当時は、あれに迷い、これに迷って何をやっているのかわからなかったというのが実際のところ。自信など毛頭無く、不安をかかえながら手探りで動いていたというのが本当だった。だから、今だって、33年にわたる道のりを振り返って呆然とする。自分がやってきたのが何だったのか、意味のあったことだったのかもまだわからない。

 「思えば遠く来たもんだ」という言葉は、知っている方も多いと思うが、中原中也の詩の一節だけど、60歳になってもこの思いはなくならない。
 
  思へば遠く来たもんだ
  十二の冬のあの夕べ
  港の空に鳴り響いた
  汽笛の湯気は今いづこ
    ・・・・・・
  今では女房子供持ち
  思へば遠く来たもんだ
  此の先まだまだ何時までか
  生きてゆくのであらうけど
  生きてゆくのであらうけど
  遠く経て来た日や夜の
  あんまりこんなにこひしゆては
  なんだか自信が持てないよ
 今でも、「なんだか自信が持てないよ」・・・・
 
 
 さて、話は戻って、3月5日の夕方、執務室で書面を書いていたところ、そとの事務所の明かりが急に暗くなって、名前を呼ばれたので、ひょいと部屋から顔を出したところ、事務所の皆さんから、「誕生日おめでとう」で迎えられた。立派なバースディケーキまで用意してもらって、60という数字をかたどったローソクの火を一気に吹き消してくれという。こんな風にお祝いをしてくれるとは予想しておらず、全くのサプライズ。おもわずホロリとしかけてしまった。
 
Gracias!みなさんありがとう!
これからも元気で仕事をやっていきますのでよろしく!
 

 

 

 

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