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コラム

 

私の野球遍歴(その3・高校編)

2009年04月08日
弁護士  太田 賢二   プロフィール

 

 僕の高校時代は,間違いなく野球中心に回っていた。僕の出身校である金沢泉ヶ丘高校は,札幌でいえば,札幌南高校にあたる旧制一中という進学校だった。それでも昭和30年代までに3回ほど甲子園に出場している。
 

 僕が入学した当時の2,3年生は,それぞれ6人しかいなかった。そのため入学と同時に,上級生と同じ練習。それでも全員で18名。1年の春からすぐベンチ入り。その春の県大会でベスト4。「もしかしたら甲子園に行けるかも。」ちらっと,そんな気持ちが横切った。
 

 高校野球というのは不思議なもので,『甲子園』という一言で,厳しい練習が完全に正当化された。人数が少ないから,とにかく元が下手でも,試合に出られるようにまでしなくてはいけない。一人あたりの練習量は,きつくなる。金沢では3月のはじめには,雪が融ける。それから夏の甲子園予選が終わるまで,雨の日も試験の日も,一日も休むことは許されなかった。毎年1学期の中間試験が終わる頃,校内の合宿所で10日間あまり寝泊まりをして,朝練,夕練を行った。その間の日曜日には,1日12時間以上グランドに出ずっぱりだった。「こんなに野球ができるのは,今だけだからありがたく思え。」それが監督の言葉だった。
 

 同学年には,後に中日ドラゴンズに入団した小松辰雄が星稜高校のエースだった。星稜とは,1年の時に1度だけ練習試合をして勝った思い出がある。残念ながら僕は,その試合に出場の機会はなかったが。
 

 最上級生になり,僕はキャプテンとなった。相変わらず長距離は苦手だったが,人一倍走るようになった。キャプテンになる前は,「もっと合理的に練習しよう」,「ちゃんと休みを取ろう」なんて言っていたくせに,気がついたらチームメイトから「鬼の黒豚」などとよばれるようになった。
 

 練習はつらい。そして,嫌い。でも勝ちたかった。本当に勝ちたかった。タイムリーヒットを打ったこともあったが,良く覚えているのは,公式戦で,3打席連続三振をして4打席目に代打を送られたことや,1試合に4回もエラーをしたこと。どちらも夜眠られなかった苦い思い出だ。
 

 結局2年の時にもう一度県大会でベスト4になったのが最高。最後の夏の大会で負けたとき,もう野球は終わりだなあと,思ったものだ。

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