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コラム

 

私の野球遍歴その7(中年弁護士編)

2011年04月08日
弁護士  太田 賢二   プロフィール

 1996年、弁護士会・札幌ローヤーズとして2回目の全国制覇を成し遂げた年。僕が37歳になって、双子の息子たちを授かった。これで我が家の生活が一変した。かみさんには、「うちは母子家庭だから」と皮肉を言われながらも、できる範囲で育児を手伝った。朝野球を辞め、ゴルフを辞めた。それでも、それ以外に自分で身体を動かす時間を作ることが非常に厳しくなった。


 一応ローヤーズには所属していたが、2回目の優勝を果たしたこともあって、「しばらくはできる範囲で」と気持ちを割り切って、練習に参加することにした。この頃から数年間は、いわゆる「代打の切り札」的な存在として、自分の居場所を確保した。言い換えると、「ずっと試合に出るレギュラーはもう良いや。そんなに無理して野球なんかしなくても良いよ。」という自分への言い訳だったのかもしれない。


 この間も、札幌ローヤーズは優勝こそできないものの、そこそこ強かった。1999年、40歳の時、福岡ドームにおいて、当時日弁連野球で屈指の好投手から、ライトオーバー・起死回生の代打同点3塁打を打ったのが良い思い出だ。もっとも、このときちゃんと走れていれば逆転のランニングホームランになっていた打球だったが、運動不足の自分は、3塁で息切れしてしまっていた。


 転機は、2004年に訪れた。この年就任した札幌ローヤーズの新監督から、「太田さんは良いから、(おおぞら事務所の新人の)川島さんをちゃんと練習に出してくださいね。」と言われた。結構カチンときた。まだまだ自分は、弁護士の野球では大丈夫、と思っていた。息子たちも2年生になって一緒にキャッチボールをするようになった。「よおし、見返してやろうじゃないか。」そう思って、春先の練習に勇んで出かけた。


 ところが、足がおぼつかない。ボールに眼がついて行かない。フライがちゃんと捕れない。情けない。ショックだった。この年の夏に45歳。もういっぺん野球に取り組もう、そう思い立った。歩いた。走った。もちろん素振りもした。さらに自宅の庭のコンクリートの壁に向かってボールを投げることを始めた。そうして転がって戻ってくるボールを、フィールディングを意識しながら、腰を落として取りに行った。そんなことをするのは、20年以上ぶりだ。最初は、50球もやると、足がガクガクになった。これを出勤前の朝に繰り返した。明らかに変なおじさんだ。そうしてこの半年で体重を約6キロ落とした。秋の大会には、何とかチームの戦力になるところまで体調を持ち直した。


 それからの5年間、大学時代と同じように、「内野の控え、代打の切り札」というあたりで野球に取り組んできた。49歳の全国大会では、久しぶりに2日続けてフル出場する機会を得た。若い頃の自分には到底信じられなかった「野球をする50歳」が近づいてきた。


(続く)

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